今死にたい人たちへ

私は大学生時代から社会人2年目の途中までうつ病希死念慮に悩まされていました。自傷行為も日常的に行っており、左手首に赤い線がいくつも残っていました。

ある程度回復した今だからこそ言えますが、当時は明らかに異常な精神状態で生活していました。朝起きてまず考えることはどうすれば苦しまずに楽に死ねるのか、そしていつ死ぬのが良いか、どこで死のうかという自死にまつわる事ばかりでした。

仕事が終わり帰宅したら、台所からホームセンターで買った安物の包丁を握り締めお風呂場に向かう。浴槽に湯を張り、首に包丁を当てがいゆっくりと動かす。切れ味の悪い包丁では人間の皮膚は切れず、ノコギリのように繰り返し動かす事でやっと少し血が滲む。そうこうしているうちに首筋に走る鈍い痛みに耐えられなくなり標的を手首に移す。

手首でも同様の事を繰り返したのちに「ああ、死ぬのってめんどくさいな」と死ぬことすらめんどくさくなり、取り敢えず今日を終えようと眠りにつく。

過去の私はそんな毎日を繰り返していました。

うつ病になったことがある方はわかると思いますが、うつ病になると人生からあらゆる希望が失われたような感覚に陥ります。楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、生きていく上で必須とも呼べるそれらポジティブな感覚が失われるのです。

そしてそんな状態を打破するために自分なりに行動、努力をするのですが一向に好転しない日々。

次第に「未来に希望なんてない」「こんな人生なら死んだ方がマシなんじゃないか?」と思うようになり、自傷行為を行う。

これは私の経験ですので全ての人に当てはまるわけではないと思いますが、なんとなく共感をいただける部分もあるのではないでしょうか。

私の場合、回復のきっかけは周りの人の支えと心理学を学び自己受容を日々繰り返し行った事、そして生物学と哲学を学び自分なりに生きる意味なんてないんだと答えを持った事です。

そして、「幸せになる為に努力するのではない、今この瞬間から幸せに生きていくんだ」と考える事で「未来に希望なんてない」という考えを克服し、

内省を続ける事で自分がやりたいこと、好きなことを見つけ少しづつ日々の中に取り入れる事で「こんな人生なら死んだ方がマシなんじゃないか?」という思いを克服していきました。

うつ病を発症してから4年ほどかかりましたが今は寛解に近い状態にあると思います。

 しかし今でもたまに「あ〜死にたいなあ」と緩やかな希死念慮を抱くことはありますし、毎日幸福で生きていてよかった、と思えるような生活を送ってはいません。

しかし、それでも「まあ、生きていても良いかな」と思えるくらいの毎日を送れてはいます。

あなたの死にたい理由はなんですか?

人が自死を考える理由は突き詰めれば上述した「未来に希望なんてない」「こんな人生なら死んだ方がマシなんじゃないか?」という考えに帰結すると私は思っています。

もちろん上記考えに行き着く理由こそが人それぞれである為に日本では様々なカウンセリングサービスがあるにも関わらず年間2万人もの人々が自死という選択をしているのだと思います。

しかし、最後に自死を選ぶ理由こそは上述した物ではないでしょうか。

どれだけ辛い状況でも終わりが見えていれば人間は耐えることができます。

フランクルの「夜と霧」を既読の方であれば既視的な内容かと思いますが、人は希望があればどのような過酷な状況にも耐えられると私は考えます。

(もちろん、辛い状況から逃れる方法が明確であるならば耐える必要なんてありません、今すぐにそこから逃げてください!)

 

もし今自死をお考えの人がいるならば今あなたの感じている苦しみにはいつか終わりがきます。

今私が生きていることこそがその証拠です。

大丈夫、あなたの苦しみにはいつか終わりがきます。

あなたの人生には希望があります。

繰り返しにはなりますが私は、うつ病から回復することができました。

 

私は自信の鬱と自傷行為の経験を通して、同じように苦しんでいる人を救いたいと思うようになりました。

このブログもそのような思いからはじめました。

私の体験談が誰かの希望になりますように。

 

いのちの電話相談 0570-783-556=ナビダイヤル 午前10時から午後10時まで

・自殺予防「いのちの電話」 0120-783-556(なやみこころ)=毎月10日(午前8時から~11日午前8時)にフリーダイヤルの電話相談

・東京自殺防止センター(NPO法人国際ビフレンダーズ東京自殺防止センター) 03-5286-9090=年中無休、午後8時~午前5時半(毎週火曜日は午後5時~午前2時半、毎週木曜日は午後8時~午前2時半

幸せの第一歩【自尊心】について

人生を幸福に生きるために必要なものがあるとすれば、皆さんはなんだと思いますか?

お金ですか?友ですか?それとも生涯を共にするパートナーでしょうか?

どれも人生を豊かに生きる上で重要な要素であると言えますが、必ずしも必要なものではないと思いませんか。

決して裕福でなくても、友達がいなくても、パートナーがいなくても日々を幸福に生きている人はいます。

もちろんその逆に、十分な資産、気の合う友人、素敵なパートナーを持っていても日々息苦しい思いをして生きている人もいます。

一体彼らの違いはなんでしょうか。

 

私は先ほどの「人生を幸福に生きるために必要な物はなんでしょうか」という問いにこう答えます。

自分自信を受容する心、自尊心であると。

自尊心とは?

自尊心とは「自分自身を受容する心」だと申し上げました。

よりわかりやすく説明すると、筆者の主観になってしまい恐縮ですが「自分自信の存在そのものを認める」という感覚に近いです。

多くの人は「自尊心」を、「自分はすごい」「自分ならできる」「自分は優れているんだ」といったような「プライド(自己愛)」や「自己肯定感」に近い物として同一に扱ってることがあります。

以下筆者の持論も含まれていますが、実際には

・「プライド(自己愛)」は、【自分の優れている部分】を認めること。

・「自己肯定感」は、自分の【悪い部分】を認めること。

・「自尊心」は、自分の【存在そのもの】を認めること。

といった違いがあります。

自尊心がないと「自分は愛されていない、認められていない」という思いから寂しさを感じたり、「こんな自分に価値なんてない、もっと努力しないと」と息苦しさを感じたり、「自分にはできない、未来に希望が持てない」と虚無感を感じるようになります。

逆に自尊心があれば、自分で自分の寂しさを満たすことができ、できない自分を認めると同時にやりたいことが明確になり、日々の幸福度が高まります。

そして何よりも自分の存在を認めること、つまり「生きていてもいい」という感覚は何ものにも変えがたい生きるパワーになります。

ですので、今なんとなく息苦しさや寂しさ、人生への虚無感を感じている人は自尊心を育て「自分は生きていてもいいんだ」という感覚を得ることが幸せへの第一歩になるでしょう。

ではどうやって自尊心を育てるのか

皆さんが幸せになるために今日からできる自尊心を育てる方法を説明します。

実際には自尊心を育てる方法はたくさんあるのですが、今回は筆者が実際に効果を感じた物だけを取り挙げて紹介させていただきたいと思います。

1 自分で自分を慰める、褒める

「セルフコンパッション」と呼ばれる手法で、

辛いことや悲しいことがあった時に「自分なら大丈夫だよ」「心配しなくてもいいよ」「ちょっと休憩しようか」と自分で自分を慰めてあげてください。

そして些細なことでもいいので自分自身を繰り返し褒めてあげるのです。

自分を褒める時に大事なのはどんなに小さなことでも褒めてあげることです。

「今日も遅刻せずに出社できたね、えらいね」「今日も職場の雰囲気を乱さずに過ごせたね、すごいね」「忙しいのに晩ご飯を自炊してるなんて、天才だよ」といった風に些細なことでもいいのでとにかく自分自身を褒めてあげるのです。

2 成功のために行っているあらゆる努力をやめる

これは筆者自身が非常に強く効果を感じた手法です。

私達現代人の多くは、何者かにならなければならない、価値ある人間にならなければならない、と日々やりたくもない努力を強いられています。

努力することは素晴らしいことでしょう。しかし実際にはそれら努力は「今の自分ではいけない」「今の自分には価値がない」といった様に自己否定を多分に孕んでいます。

ですので、まずは一度だけでもいいので

「もういいんだよ、もう頑張らなくていいんだよ」

「よくがんばったね、これからはずっと幸せでいようね」

と自分に語りかけ、一切の努力をやめてみてください。人生を諦めるような脱力的な感覚に近いですが、その感覚を受け入れることで今現在の自分自身を受容しなんとも言えない心地よさを感じることができると思います。

そうです、その心地よさこそが自尊心でしょう。

最後に

これら自尊心を育むワークは習慣的に行うのがベストですが、一度だけでも十分に効果を期待できます。

日々生きづらさを感じている人は是非とも今日から初めてみてください。

生きる意味とは?

長く短い祭りである人の生涯。十人十色という言葉があるように、人にはそれぞれ異なった人生がある。誰も同じ出会いはなく、同じ出来事を経験せず、同じ悩みを持つことはない。

全く異なった人生を送る人々ですが、誰にも共通する悩みが一つだけあるのではないでしょうか。

人はなぜ生きるのか、生きる意味とは?

生きることは苦悩に塗れています。

長く生きれば生きるほど、お金や仕事や人間関係といった日々頭を煩わせる物事が増えていきます。明日を生きる為に今日働き、明日も働く為に今日を生きる。ただ生きる為に目の前の苦痛や悩みに目を瞑り、即物的な快楽で気を紛らわす。そうやって過ごすうち、ふと立ち止まった時に一つの思いが頭をよぎるのです。

「なぜ生きるのか。この苦痛に耐えてまで生きる意味などこの人生にあるのだろうか。」

このような悩みは誰もが一度は抱いたことがあるのではないでしょうか。

生きる意味を問うことは人間の本質であると心理学者フランクルは説きました。この問いに向き合うきっかけは人それぞれであるが人はこの問いに向き合わずに生きることはできないと言ったのです。

仕事にやりがいを持てない、夫婦恋人関係が上手くいかない、友人関係で失敗した、理由は多岐に渡りますが誰もが共通して抱いているのは言いようのない未来への不安と満たされぬ心の中にある虚しい気持ち。

「私の人生はこのままでいいのだろうか?」

心理学ではこのような心の状態を「実存的空虚」と名付けました。

種としての生きる意味

生きる意味という問いに対して答えを出すには、いくつか知っておかなければいけない知識や考えがあると私は思います。

その一つは、私達人間は「ホモサピエンス」という一種の「動物」でしかないということ。

私達人間は、自分達以外の種を指す時に「動物」「植物」という言葉を用います。「犬」は動物、「ライオン」は動物、「花」は植物という風に。これは誰に問うても同じ答えが返ってくるでしょう。

では「人間」は?

この問いに対しても「人間も動物である」とスムーズに答えられる人は多くいるでしょう。人間の命も犬の命も重さに違いはない、人間も動物の一種であり、「動物」「植物」と同じ「生物」であると。

では

「犬に生きる意味はありますか?」「花に生きる意味はありますか?」

 あなたはこの問いに答えられますか?犬はなぜ生きるのか、花はなぜ生きるのか、生物はなぜ生きるのか。あなたは先ほど答えました。私達人間は動物であり、生物であると。

私達人間と同じ「生物」である「犬」や「花」には生きる意味があると思いますか?

「花は植物だから、生きる意味なんてない。」

と思いますか?

では、私達人間と同じ「動物」である「犬」はどうですか?

「犬に生きる意味はない。ただ生まれてきたから生きているんだ。」

と考えますか?

「同じ動物だけど私達人間は神に愛された種である。だから私達人間にだけは生きる意味がある。」

と答えますか?

この問いに対する答えは人それぞれで構いません。私は宗教を含めスピリチュアルな考えを否定するつもりは一切ありません。それらは存在を証明することもできなければ存在しないことを証明することもできません。

ですのであなたがこのようなスピリチュアルを心の底から信じることができるのであればあなたはその通りに生きれば良いと思います。神に与えられた使命こそが人の生きる意味であると信じて生きれば良いのです。

大事なのは正しい答えを知っていることではありません

自分なりの答えを持つこと、自分なりの答えを探し出す力を持つことだと私は思います。

私は「犬や花に生きる意味はない」と考えます。 

彼ら「動物」や「植物」は遺伝子に刻まれた繁殖本能(自らの遺伝子を残したいという本能)に従ってただ生きています。自らの遺伝子を残すために、食べ、眠り、繁殖行為を行っています。少しでも自分の遺伝子が生き易いように群れをなします。群れの中には狩を専門に担う個体がいたり、子育てを専門に行う個体がいます。そして群れを率いるボスがいてそれぞれの個体が己の役割に従事することで群れはスムーズに活動し、種としての遺伝子はより長く、安全に引き継がれていくのです。

まるで私達人間のようですね。

生まれた土地や血の繋がりによって群れ(社会)を作り、食べ物を生み出す役割(仕事)を専門に行う個体がいれば、娯楽を生み出す役割、衛生を維持する役割、外敵から群れを守る役割を担う個体がいる。そして群れを率いる総理や大統領という役割があり、それぞれが己の役割(仕事)に従事することで群れ(社会)はスムーズに活動し、種としての遺伝子はより長く、安全に引き継がれてきます。

私達は動物(生物)なのです。

どれだけ知能が発達し、高度な科学を使いこなし、高尚な哲学を語ろうと、私達が行っていることはその他生物と何ら変わりないのです。

ただ、自らの遺伝子を残したい。より安全に確実に自らの遺伝子を存続させたい。ただそれだけの本能にしたがって人間は長い年月をかけて発展してきたのです。

その他生物と同じように。

そして何千年という長い年月をかけて遺伝子を存続させてきた結果、あなたが生まれたのです。

「人間の種としての生きる意味は遺伝子を存続させることである」

その他生物に生きる意味がなく、ただ遺伝子を存続させるためだけに活動しているのだとすれば、同じ生物である人間にも生きる意味などなく、ただ遺伝子を存続させるためだけに生きている、と考えるのが打倒ではないでしょうか。

もちろんここで先ほど取り上げたスピリチュアルな考えを考慮することもできますが、今回はこれらスピチュアルに関しては割愛させていただきます。

とりあえず

人間という種には生きる意味はない、という考えに関して生物学的な視点から話してきました。賛否両論あるでしょうし、人によっては理解はできるがなんとなく納得はできないということもあるでしょう。

しかし私はこう考えています。

「生きる意味などない。だからこそ自分の好きなように生きていいんだ。」と。

人生においてやらないといけないことや、達成しないといけない物事などないのです。社会はあなたに役割を担うことを求めるかもしれません、結婚し子を残すことを求めるかもしれません。人のためにあれと求めるかもしれません。価値ある人間であれと求めるかもしれません。

しかしあなたはそれら求められている様に生きる必要はないのです。

なぜなら生きる意味、生まれて来た意味などないのだから。

ただあなたはあなたが望むように生きれば良いのです。あなたが望むあなたであれば良いのです。やりたいことをして、生きたい今日を生きれば良いのです。やりたくないことをやるもやらないもあなたの自由です。

そのように考えてみると生きる意味がないってとても素敵なことのように感じられませんか?空虚だと考えていた人生も途端に自由であると感じられませんか?

仕事にやりがいが感じられませんか?だったらやりがいを感じられる何かを始めましょう。それを形にするには時間がかかるかもしれませんね。もしかしたら大きな努力や我慢が必要かもしれません。でも安心してください。

あんたの人生にやらなければいけないことなどないのです。だから、焦らずあなたのペースで進めばいいのです。辛いのならば、立ち止まって休憩すればいいのです。

大好きなあの人と上手くいきませんでしたか?それとも孤独な将来が恐ろしいですか?であれば、一人の自由を謳歌してみるのはいかがですか?行きたかった場所に行く、やりたかったことに没頭するのはどうですか?気になっていたあの人に声をかけてみるのもいいかもしれませんね。安心してください。

あなたの人生においてやらなければいけないことなどないのです。あなたは決して誰か一人の異性と生涯を共にする誓いを立てる必要はないのです。もちろんそのような関係になる異性を探す必要もないのです。だから、焦らず今の身軽さを楽しめば良いのです。生涯を添い遂げたいと思える誰かが現れるまであなたはあなたらしく生きれば良いのです。

あなたの人生に意味ややらなければいけないことなどないのです。

世の中にはあなたのように純粋に生きる意味に悩み迷っている人の心を迷わせる様々な情報、人々が溢れています。

彼らはこう言うかもしれません。

「お金こそが生きる意味だ」

「他者からの羨望こそが生きる意味だ」

「何かを成し遂げなければ生きている意味などない」

「価値のある人間でなければ生きる意味などない」と。

もしこのような言葉にあなたの心が惹かれたならば、一度立ち止まって考えてみてください。

「あなたの人生にもとより意味などないのです。」

そう考えた上で、あなたの心が惹かれるのならばあなたは迷いを捨て、焦りを克服し前に進んでも良いかもしれませんね。